周囲の期待が作り上げた新世代のパワフルなヒロイン。90年代の女子ツアーを彩った西田智恵子(当時。現在は智慧子)をひと言で表すと、こんな感じだろうか。恵まれた体とソフトボール仕込みのしっかりした体幹が放つ飛距離と、無欲なプレーぶり。その存在が初めてクローズアップされたのが、1990年10月の宝インビテーショナルだった。
公式戦以外で、当時としては珍しい4日間大会の舞台は蒲生GC(滋賀県)。現在とは違い、男子ツアーの注目度が高く、ましてや同じ週には小樽CC(北海道)で日本オープンが行われていた。
中嶋常幸がデッドヒートの末、尾崎将司のナショナルオープン三連覇を阻む激戦の”裏側“での戦いは、結果的に女子ツアーの”色“を塗り替えるような一戦となった。
まだQT制度も導入されておらず、月例競技で試合の出場権を争っていた頃。ゴルフを始めて約3年で89年春のプロテスト(当時は年2回開催)に合格した西田は、主催者推薦で出場していた。
「正直、まだ優勝できるとかほぼ考えていなかった。ただ何となく、みんなで試合に出られて楽しいな、と言う感じの頃でした」。というような若手選手のひとり。試合に行けば一緒に行動する仲よし3人組(柴田規久子、前田すず子=当時。現在は真希)で、それまでの女子ツアーとは違う新しい空気を醸し出していた。
それでも、前週の東海クラシックで柴田が優勝したことに、刺激は受けていた。3人の中では一番しっかり者の柴田に「“私でも(優勝)できたんだから、西やん(西田)も前田もできるよ”と言われたんです」。これを意識してプレーしたかどうかは、本人にもわからない。だが、当時としては距離の長い試合セッティングの蒲生GCは、飛距離を武器に持つ西田にとって「回りやすかった」ことは確かだった。
一般営業のセッティングとほとんど変わらない状態で行われる月例競技よりも、コンディションもよく、距離もあるトーナメントのほうが「プレーしやすい」と感じていた。その中でも、多くの選手が距離の長さに苦戦する蒲生は、西田にアドバンテージを与えてくれた。
「みんなが入るバンカーを、私は越えていく。バンカーとバンカーの間を狙うみんなにとっては狭いホールも、私には広かったんです」と話すようにのびのびとプレーして、初日は2アンダー。蒲生所属の鄭ミキ(台湾)と並ぶ首位タイ発進だった。
2日目もひとつスコアを伸ばして、鄭との首位タイは変わらない。3日目、周囲が鄭を応援していることでハッと気が付いた。「そうか。所属プロだからね。私のキャディさんもコースの研修生だったので、なんとなく応援してるのがわかった」と振り返る。
3日目を西田はイーブンで回り、鄭が3打後退したことで単独首位に立った。2打差2位は高村博美。この年、賞金女王になった実力者だ。3打差3位には鄭と葉蔚芳の台湾勢と、金万寿(韓国)がつけていた。
優勝がかかった最終日は、所属する葛城GC(静岡県)から大勢の研修生や仲間たちが応援に来てくれていた。だがホールアウトするまで、西田はそのことを知らずにプレーしていた。「たぶん集中していたんでしょうね」という18ホール。前半はスコアカードどおりにパーを重ねたが、後半はそうはいかなかった。
10番でダブルボギーを叩くと、続く11番もボギー。”貯金“を全部吐き出した。だが12番でバーディを奪い、この時点で通算1アンダー。「クラブの番手を間違ったり、いろんなトラブルがあったんですよ。ゴルフを始めて日が浅かったからでしょうね」と苦笑するバックナイン。途中、スコアボードもほとんどなく、状況がわからないまま迎えた18番で、一緒にプレーしていた高村が、自分のほうを見ていることに気が付いてハッとした。
「スコアボードを見て、私の顔を見たんです。え? まさか……って」。このとき、高村は1オーバーで西田とは2打差。ボードではイーブンパーで鄭がホールアウトしていた。
グリーン左端に切られたピンに対して、西田は右奥に2オン。「2パットで行けばいいや」と思っていたが、いきなり状況がわかって驚いた。
それでも、あわてることなく、きっちりとパーセーブして初優勝。涙もなく、静かにほほ笑みながら勝利の美酒を味わった。
岐阜県出身で、多治見西高校時代はソフトボール部で大活躍。実業団ユニチカ垂井時代には、後に日本代表監督となる宇津木妙子コーチがいた。ここでは国体出場も経験したが、2年で辞めている。その後、結婚に傾く気持ちを抱えながらゴルフ場のレストランでアルバイトをしているときに、人に勧められて葛城GCの研修生となって始めたのがゴルフだった。
実は実業団入りも、ゴルフを始めたのも、本人の意思というより人の勧めに応じただけ。「自分のことは自分より周りのほうが見えているから、言われたらやってみようと思って」と、ゴルフを選び、結婚しなかったことも含めて後悔してはいないという。
この年9月に24歳になったばかりの西田は、翌週の富士通レディースも制してセンセーショナルを巻き起こすことになる。パワフルなドライバーショットを見せながら、感情を爆発させることのないプレー態度とのギャップが魅力のニューヒロイン誕生の瞬間だった。(文・清流舎 小川淳子)
公式戦以外で、当時としては珍しい4日間大会の舞台は蒲生GC(滋賀県)。現在とは違い、男子ツアーの注目度が高く、ましてや同じ週には小樽CC(北海道)で日本オープンが行われていた。
中嶋常幸がデッドヒートの末、尾崎将司のナショナルオープン三連覇を阻む激戦の”裏側“での戦いは、結果的に女子ツアーの”色“を塗り替えるような一戦となった。
まだQT制度も導入されておらず、月例競技で試合の出場権を争っていた頃。ゴルフを始めて約3年で89年春のプロテスト(当時は年2回開催)に合格した西田は、主催者推薦で出場していた。
「正直、まだ優勝できるとかほぼ考えていなかった。ただ何となく、みんなで試合に出られて楽しいな、と言う感じの頃でした」。というような若手選手のひとり。試合に行けば一緒に行動する仲よし3人組(柴田規久子、前田すず子=当時。現在は真希)で、それまでの女子ツアーとは違う新しい空気を醸し出していた。
それでも、前週の東海クラシックで柴田が優勝したことに、刺激は受けていた。3人の中では一番しっかり者の柴田に「“私でも(優勝)できたんだから、西やん(西田)も前田もできるよ”と言われたんです」。これを意識してプレーしたかどうかは、本人にもわからない。だが、当時としては距離の長い試合セッティングの蒲生GCは、飛距離を武器に持つ西田にとって「回りやすかった」ことは確かだった。
一般営業のセッティングとほとんど変わらない状態で行われる月例競技よりも、コンディションもよく、距離もあるトーナメントのほうが「プレーしやすい」と感じていた。その中でも、多くの選手が距離の長さに苦戦する蒲生は、西田にアドバンテージを与えてくれた。
「みんなが入るバンカーを、私は越えていく。バンカーとバンカーの間を狙うみんなにとっては狭いホールも、私には広かったんです」と話すようにのびのびとプレーして、初日は2アンダー。蒲生所属の鄭ミキ(台湾)と並ぶ首位タイ発進だった。
2日目もひとつスコアを伸ばして、鄭との首位タイは変わらない。3日目、周囲が鄭を応援していることでハッと気が付いた。「そうか。所属プロだからね。私のキャディさんもコースの研修生だったので、なんとなく応援してるのがわかった」と振り返る。
3日目を西田はイーブンで回り、鄭が3打後退したことで単独首位に立った。2打差2位は高村博美。この年、賞金女王になった実力者だ。3打差3位には鄭と葉蔚芳の台湾勢と、金万寿(韓国)がつけていた。
優勝がかかった最終日は、所属する葛城GC(静岡県)から大勢の研修生や仲間たちが応援に来てくれていた。だがホールアウトするまで、西田はそのことを知らずにプレーしていた。「たぶん集中していたんでしょうね」という18ホール。前半はスコアカードどおりにパーを重ねたが、後半はそうはいかなかった。
10番でダブルボギーを叩くと、続く11番もボギー。”貯金“を全部吐き出した。だが12番でバーディを奪い、この時点で通算1アンダー。「クラブの番手を間違ったり、いろんなトラブルがあったんですよ。ゴルフを始めて日が浅かったからでしょうね」と苦笑するバックナイン。途中、スコアボードもほとんどなく、状況がわからないまま迎えた18番で、一緒にプレーしていた高村が、自分のほうを見ていることに気が付いてハッとした。
「スコアボードを見て、私の顔を見たんです。え? まさか……って」。このとき、高村は1オーバーで西田とは2打差。ボードではイーブンパーで鄭がホールアウトしていた。
グリーン左端に切られたピンに対して、西田は右奥に2オン。「2パットで行けばいいや」と思っていたが、いきなり状況がわかって驚いた。
それでも、あわてることなく、きっちりとパーセーブして初優勝。涙もなく、静かにほほ笑みながら勝利の美酒を味わった。
岐阜県出身で、多治見西高校時代はソフトボール部で大活躍。実業団ユニチカ垂井時代には、後に日本代表監督となる宇津木妙子コーチがいた。ここでは国体出場も経験したが、2年で辞めている。その後、結婚に傾く気持ちを抱えながらゴルフ場のレストランでアルバイトをしているときに、人に勧められて葛城GCの研修生となって始めたのがゴルフだった。
実は実業団入りも、ゴルフを始めたのも、本人の意思というより人の勧めに応じただけ。「自分のことは自分より周りのほうが見えているから、言われたらやってみようと思って」と、ゴルフを選び、結婚しなかったことも含めて後悔してはいないという。
この年9月に24歳になったばかりの西田は、翌週の富士通レディースも制してセンセーショナルを巻き起こすことになる。パワフルなドライバーショットを見せながら、感情を爆発させることのないプレー態度とのギャップが魅力のニューヒロイン誕生の瞬間だった。(文・清流舎 小川淳子)