2年ぶりに、そして初めてプロとして出場した14年大会は苦しい戦いとなった。連戦からくる左手の故障による調整不足も重なり、初日に「80」を叩いて大きく出遅れ。2日目は「71」にまとめたが、カットラインに遠く及ばず予選落ち。PGAツアーメンバーとなった松山のメジャー大会での予選落ちはこれが初めてのこと。「悔しい以外に何もない」と唇をかんだ。
前年の「ザ・メモリアル・トーナメント」で日本人史上4人目のPGAツアーチャンピオンとなって迎えた15年大会。注目度も前回の比ではない戦いのなかで、前年の鬱憤(うっぷん)を晴らすようなプレーを見せた。安定したプレーでアンダーを積み重ね、10位タイで迎えた最終日には「66」をマークして一気にジャンプアップ。片山晋呉、伊澤利光の4位に続く日本勢3番目の5位に食い込んでメジャー制覇に現実味を持たせた一戦となった。
さらに翌16年は優勝争いに加わることになる。最終日を迎えた時点で首位とは2打差の3位。歴史が変わる瞬間を誰もが待ち望む日曜日となった。しかし、最終日は前半4番でボギーを叩くと、5番でもボギー。さらに6番のパー3ではダブルボギーを叩いて優勝戦線から脱落した。後半は巻き返したものの前半の後退が最後まで響いてしまった。
これ以降は苦しい戦いが続いた。17年は2日目に「70」で16位タイに浮上したものの、ムービングデーの3日目は18番で痛恨の4パットをたたくなど苦しんだ。「67」と巻き返して11位タイで終え、日本のエースの意地を見せたものの、全体的にフラストレーションがたまる大会だったのは間違いない。
18年大会も19位、19年大会は32位タイ。新型コロナウイルスの影響により秋に開催された20年も、予選ラウンドを終えて首位と1打差の6位タイにつけたもののムービングデーに伸ばせず。結果13位タイと、またもトップ10入りを逃した。
そうして迎えた21年大会。米ツアー公式サイトの優勝予想から漏れるなど期待はかつてほどではなかったが、初日に2位タイ発進を見せると、3日目に3日連続のイーグルを奪うなど自身マスターズのベストスコアとなる「65」を叩き出した。2位以下に4打差をつけて単独首位に浮上すると、そのままトップで駆け抜けて、日本勢の悲願を達成した。
前年の「ザ・メモリアル・トーナメント」で日本人史上4人目のPGAツアーチャンピオンとなって迎えた15年大会。注目度も前回の比ではない戦いのなかで、前年の鬱憤(うっぷん)を晴らすようなプレーを見せた。安定したプレーでアンダーを積み重ね、10位タイで迎えた最終日には「66」をマークして一気にジャンプアップ。片山晋呉、伊澤利光の4位に続く日本勢3番目の5位に食い込んでメジャー制覇に現実味を持たせた一戦となった。
さらに翌16年は優勝争いに加わることになる。最終日を迎えた時点で首位とは2打差の3位。歴史が変わる瞬間を誰もが待ち望む日曜日となった。しかし、最終日は前半4番でボギーを叩くと、5番でもボギー。さらに6番のパー3ではダブルボギーを叩いて優勝戦線から脱落した。後半は巻き返したものの前半の後退が最後まで響いてしまった。
これ以降は苦しい戦いが続いた。17年は2日目に「70」で16位タイに浮上したものの、ムービングデーの3日目は18番で痛恨の4パットをたたくなど苦しんだ。「67」と巻き返して11位タイで終え、日本のエースの意地を見せたものの、全体的にフラストレーションがたまる大会だったのは間違いない。
18年大会も19位、19年大会は32位タイ。新型コロナウイルスの影響により秋に開催された20年も、予選ラウンドを終えて首位と1打差の6位タイにつけたもののムービングデーに伸ばせず。結果13位タイと、またもトップ10入りを逃した。
そうして迎えた21年大会。米ツアー公式サイトの優勝予想から漏れるなど期待はかつてほどではなかったが、初日に2位タイ発進を見せると、3日目に3日連続のイーグルを奪うなど自身マスターズのベストスコアとなる「65」を叩き出した。2位以下に4打差をつけて単独首位に浮上すると、そのままトップで駆け抜けて、日本勢の悲願を達成した。