初日と2日目をともに「63」で回り、36ホールの大会記録を4打も更新。3日目は「68」、最終日はイーブンパーの「71」。4日間、ニーマンが素晴らしいスコアを出し続けるカギになったのは、何より彼のパットだった。
ニーマンは屈指のショットメーカーとして知られているが、パッティングのランキングは、ほぼいつも3桁の順位だ。しかしリビエラのポアナのグリーン上では、ニーマンはまるでパットの名手のごとく、次々にカップに沈め、スコアを伸ばしていった。最終日こそ、短いパットを外す場面が見られたが、それもこれも、すべては「メンタルによるところが大きかったと思う」。
2018年にプロ転向したニーマンは19年にミリタリー・トリビュート・アット・グリーンブライアで初優勝を飾り、米ツアーで優勝した初のチリ人選手となった。だが、以後は優勝争いに何度も絡みながらも惜敗ばかり。「永遠に勝てないような気がしていた。長い道程だった」。
18番グリーン脇では、ニーマンと同じスペイン語を母国語とするセルヒオ・ガルシアやジョナサン・ベガス、カルロス・オルティスらが見守っていた。大観衆の中にはチリの国旗を掲げながら声援を送っていたギャラリーの姿も見られた。
「みんなが僕の優勝を喜び、こうして祝福してくれていることがうれしい。言葉がない」
ニーマンといえば、20年マヤコバ・ゴルフ・クラシックで白いリボンを選手たちに配り、寄付を呼び掛けたことが思い出される。生後1か月のニーマンの従兄弟(いとこ)が、脊髄性筋萎縮症という1万に数人の難病と診断され、命の灯を消さないための唯一の方法はゾルゲンスマという2億円超の高価な薬を注射することだと医師から告げられた。
ニーマンは屈指のショットメーカーとして知られているが、パッティングのランキングは、ほぼいつも3桁の順位だ。しかしリビエラのポアナのグリーン上では、ニーマンはまるでパットの名手のごとく、次々にカップに沈め、スコアを伸ばしていった。最終日こそ、短いパットを外す場面が見られたが、それもこれも、すべては「メンタルによるところが大きかったと思う」。
2018年にプロ転向したニーマンは19年にミリタリー・トリビュート・アット・グリーンブライアで初優勝を飾り、米ツアーで優勝した初のチリ人選手となった。だが、以後は優勝争いに何度も絡みながらも惜敗ばかり。「永遠に勝てないような気がしていた。長い道程だった」。
18番グリーン脇では、ニーマンと同じスペイン語を母国語とするセルヒオ・ガルシアやジョナサン・ベガス、カルロス・オルティスらが見守っていた。大観衆の中にはチリの国旗を掲げながら声援を送っていたギャラリーの姿も見られた。
「みんなが僕の優勝を喜び、こうして祝福してくれていることがうれしい。言葉がない」
ニーマンといえば、20年マヤコバ・ゴルフ・クラシックで白いリボンを選手たちに配り、寄付を呼び掛けたことが思い出される。生後1か月のニーマンの従兄弟(いとこ)が、脊髄性筋萎縮症という1万に数人の難病と診断され、命の灯を消さないための唯一の方法はゾルゲンスマという2億円超の高価な薬を注射することだと医師から告げられた。