カナダカップが創始された昭和20年代、日本のスポーツ界は戦争責任を問われて国際大会からことごとくシャットアウトされていた。オリンピックも同然だった。戦後のオリンピック参加は1952(昭和27)年のヘルシンキ大会だった。カナダカップも主催者から無視されていた。
1953(昭和28)年、英国のエリザベス女王の戴冠式がロンドンで行われ、現天皇が皇太子時代、昭和天皇のご名代として参列された。この時、皇太子は米国経由で渡英され、米国滞在中カナダ訪問の機会があった。時の駐カナダ大使・井口貞夫の手引きでゼネラルダイナミックス社を訪れた。井口は東京ゴルフ倶楽部の会員で、ゴルフの好きの外交官だった。カナダカップの開催を知っていたので、ホプキンスに『戦後8年を経て、日本の国内情勢も落ち着いてきた。ゴルフは日本国内でも復活していて、ゴルファーも増えている。この際、日本のカナダカップの参加を検討してもらいたい』と持ちかけたことから、日本の参加が実現し1959(昭和29)年、中村寅吉、石井廸夫が初めて出場した(団体14位タイ)。井口の働きかけが功を奏した。翌1959年にはホップキンスが訪日し、日本のゴルフ界の中枢だった野村駿吉、小寺酉二両氏が日本のゴルフ界を代表して歓迎し、カナダカップの日本開催を打診している。
1955(昭和30)年の大会はワシントンで開催され、小野光一と栗原甲子男のぺアが出場して団体13位タイになった。
●林、石井(廸)の大健闘
1956(昭和31)年のロンドン大会はロンドン郊外のウエントワース西コースで開催された。日本代表は林由郎と石井廸夫。団体4位タイという好成績を残して、日本のゴルフが世界の話題になった。優勝はゴルフ王国アメリカで、この時アメリカの代表は人気絶頂のベン・ホーガンとサム・スニード。両者は最終日のプレーで仲良く68をマークして団体優勝をとげたが、日本の林、石井もともに68を出して好成績に繋げたから世界のゴルフ界は眼を見張った。これで日本開催に向けて拍車がかかった。
●日本開催でゴルフ熱が高まる
1953(昭和28)年、英国のエリザベス女王の戴冠式がロンドンで行われ、現天皇が皇太子時代、昭和天皇のご名代として参列された。この時、皇太子は米国経由で渡英され、米国滞在中カナダ訪問の機会があった。時の駐カナダ大使・井口貞夫の手引きでゼネラルダイナミックス社を訪れた。井口は東京ゴルフ倶楽部の会員で、ゴルフの好きの外交官だった。カナダカップの開催を知っていたので、ホプキンスに『戦後8年を経て、日本の国内情勢も落ち着いてきた。ゴルフは日本国内でも復活していて、ゴルファーも増えている。この際、日本のカナダカップの参加を検討してもらいたい』と持ちかけたことから、日本の参加が実現し1959(昭和29)年、中村寅吉、石井廸夫が初めて出場した(団体14位タイ)。井口の働きかけが功を奏した。翌1959年にはホップキンスが訪日し、日本のゴルフ界の中枢だった野村駿吉、小寺酉二両氏が日本のゴルフ界を代表して歓迎し、カナダカップの日本開催を打診している。
1955(昭和30)年の大会はワシントンで開催され、小野光一と栗原甲子男のぺアが出場して団体13位タイになった。
●林、石井(廸)の大健闘
1956(昭和31)年のロンドン大会はロンドン郊外のウエントワース西コースで開催された。日本代表は林由郎と石井廸夫。団体4位タイという好成績を残して、日本のゴルフが世界の話題になった。優勝はゴルフ王国アメリカで、この時アメリカの代表は人気絶頂のベン・ホーガンとサム・スニード。両者は最終日のプレーで仲良く68をマークして団体優勝をとげたが、日本の林、石井もともに68を出して好成績に繋げたから世界のゴルフ界は眼を見張った。これで日本開催に向けて拍車がかかった。
●日本開催でゴルフ熱が高まる