第1回は1980年全米オープン。バルタスロールゴルフクラブ(ニュージャージー州)で繰り広げられた激闘を振り返るのは、主役の1人、青木功だ。
大会に備えてコース入りした青木は、予選ラウンドのペアリングを見て驚いた。『ジャック・ニクラス、ジーン・リトラー、青木功』の文字があったからだ。
ニクラスは、このときすでにメジャー15勝を挙げていた。青木は38歳で、前年、日本で3度目の賞金王の実績があり、前年の全英オープンでも優勝争いに顔を出す(7位)など着実に力をつけてはいた。それでも、米国ではまだそれほど知られていなかった。だから、ビッグネームとの組み合わせにこんな感想を持ったと笑う。「(当時中継していた)NHKの力がすごいのかな、って言ったのを覚えているよ」。
一方で、青木には強烈なプライドと自信があった。だから、圧倒的な強さを誇るニクラスについた『帝王』というニックネームが気に入らなかった。「“帝王”ってどういう意味だ?ってみんなに聞いたんだ。“帝王”ってのは、それより上の人がいないって言う意味だろう? 『オレだってゴルフの帝王だ』って言ったこともあるよ。ジャック・ニクラスを抜こうとしていた。挑戦する意欲があった」。1976年から海外でプレーし始め、自信にあふれてもいた。
こうして7076ヤード、パー70のバルタスロールで幕を開けた大会初日、ニクラスは「63」を叩き出し、トム・ワイスコフとともに首位に立つ。青木も「68」で5打差9位タイと悪くないスタートを切っている。
2日目。1つスコアを落としたニクラスに対し、青木はこの日も「68」でプレー。キース・ファーガス、ロン・ヒンケルと共に2打差2位タイに浮上した。対照的に「75」を叩いたワイスコフは優勝争いから姿を消した。
3日目。ニクラスは足踏みして通算6アンダーのまま。青木は、この日も「68」でプレーしてついにニクラスに肩を並べ、首位タイのまま最終日に突入する。
4日間、72ホールずっと一緒にプレーすることになった青木とニクラス。後に“バルタスロールの死闘”と呼ばれることになる一歩も譲らない戦いの幕が切って落とされる。前述のように、当時としては長いセッティングに「コースが長くて練習ラウンドではハーフ回っただけで疲れたくらいだった。初日、2日目はそれに近い感じだったと思う。セカンドでウッドを持つホールが18ホール中、14ホールはあったんじゃないかな。でも、それが3日目、4日目はアイアンで打つことが増えていったんだ。コースに慣れたのもあるけど、アドレナリンが出てたんだろうな」(青木)という状況で、ともに通算6アンダーからスタートした。
フロントナインは、1バーディ、2ボギーのニクラスに対し、青木は1バーディ、4ボギーで2打差をつけられた。だが、ともにバーディとした10番からのバックナインの戦いは、大ギャラリーはもとより、テレビ画面を通して世界中のファンを釘付けにした。
「優勝争いをしている意識というか、ただイケイケの気持ちでずっとプレーしてた。失敗なんか考えてなかった。ジャックのプレーにギャラリーが大騒ぎするたびに『うるせえな』とは思ったけど、その分、自分の中で『青木頑張れ、青木頑張れ』って言いながらプレーしていた。体技心が充実してたんだろう。俺がシビれるときは、彼もシビれてるじゃないかって思うくらいにね」
10番。青木がグリーンの外からチップインバーディを決めた後、バーディパットに臨んだニクラスが「3回仕切り直ししてた」(青木)というほどの緊迫感が漂う。「オレもゴルファー。ジャックもゴルファー。相手が1回でも失敗したら、追いつけるかもしれないと思ってやってた。自分の失敗は考えることがないくらい充実してた」と、11番以降はスコアカード通りのプレーを揃って続けていく。
クライマックスの17番、18番が続けてパー5なのがバルタスロール。17番は青木、ニクラスともにバーディで、2打差のまま最終ホールを迎える。最後まで優勝するつもりでプレーしていた青木は、ここでもバーディ奪取。ニクラスもバーディで、2打差のまま勝負がついた。
メジャー16勝目を飾ったニクラスが、ウイニングボールをそっとポケットに忍ばせたのとは対照的に、青木は、まるで優勝したかのようにカップから拾い上げたボールを大歓声に沸くギャラリーのなかに放り込んだ。
「負けても勝った雰囲気になったのはあの試合だけ。勝ったみたいにボール投げてたもんなぁ。優勝する、じゃなくて勝つチャンスは自分で作る、と思ってやっていた。どの試合も勝つつもりで。世界一俺が上手いと思ってやってるんだよ。そうじゃなきゃ海外になんか行かない」
翌日の新聞には、ニクラス優勝のニュースとともに“オリエンタルマジック”の見出しが躍る。死闘には敗れたものの、独特のパッティングスタイルから繰り出される青木のミラクルパットが、この言葉と共に人々の記憶に強く刻み込まれた。
「後でニクラスが俺のことを聞かれて“パッティングの教科書”(自分の技術論)を変えなきゃいけない、みたいなこと言ったと聞いたけど、『大きなお世話だ』と思ったね。これが俺なんだ。シンプル。オリエンタルマジックだろうが何だろうが、俺のスタイルだからね」。この自負が、1983年のハワイアンオープン優勝につながる。その話はまた後日。(文・小川淳子)
大会に備えてコース入りした青木は、予選ラウンドのペアリングを見て驚いた。『ジャック・ニクラス、ジーン・リトラー、青木功』の文字があったからだ。
ニクラスは、このときすでにメジャー15勝を挙げていた。青木は38歳で、前年、日本で3度目の賞金王の実績があり、前年の全英オープンでも優勝争いに顔を出す(7位)など着実に力をつけてはいた。それでも、米国ではまだそれほど知られていなかった。だから、ビッグネームとの組み合わせにこんな感想を持ったと笑う。「(当時中継していた)NHKの力がすごいのかな、って言ったのを覚えているよ」。
一方で、青木には強烈なプライドと自信があった。だから、圧倒的な強さを誇るニクラスについた『帝王』というニックネームが気に入らなかった。「“帝王”ってどういう意味だ?ってみんなに聞いたんだ。“帝王”ってのは、それより上の人がいないって言う意味だろう? 『オレだってゴルフの帝王だ』って言ったこともあるよ。ジャック・ニクラスを抜こうとしていた。挑戦する意欲があった」。1976年から海外でプレーし始め、自信にあふれてもいた。
こうして7076ヤード、パー70のバルタスロールで幕を開けた大会初日、ニクラスは「63」を叩き出し、トム・ワイスコフとともに首位に立つ。青木も「68」で5打差9位タイと悪くないスタートを切っている。
2日目。1つスコアを落としたニクラスに対し、青木はこの日も「68」でプレー。キース・ファーガス、ロン・ヒンケルと共に2打差2位タイに浮上した。対照的に「75」を叩いたワイスコフは優勝争いから姿を消した。
3日目。ニクラスは足踏みして通算6アンダーのまま。青木は、この日も「68」でプレーしてついにニクラスに肩を並べ、首位タイのまま最終日に突入する。
4日間、72ホールずっと一緒にプレーすることになった青木とニクラス。後に“バルタスロールの死闘”と呼ばれることになる一歩も譲らない戦いの幕が切って落とされる。前述のように、当時としては長いセッティングに「コースが長くて練習ラウンドではハーフ回っただけで疲れたくらいだった。初日、2日目はそれに近い感じだったと思う。セカンドでウッドを持つホールが18ホール中、14ホールはあったんじゃないかな。でも、それが3日目、4日目はアイアンで打つことが増えていったんだ。コースに慣れたのもあるけど、アドレナリンが出てたんだろうな」(青木)という状況で、ともに通算6アンダーからスタートした。
フロントナインは、1バーディ、2ボギーのニクラスに対し、青木は1バーディ、4ボギーで2打差をつけられた。だが、ともにバーディとした10番からのバックナインの戦いは、大ギャラリーはもとより、テレビ画面を通して世界中のファンを釘付けにした。
「優勝争いをしている意識というか、ただイケイケの気持ちでずっとプレーしてた。失敗なんか考えてなかった。ジャックのプレーにギャラリーが大騒ぎするたびに『うるせえな』とは思ったけど、その分、自分の中で『青木頑張れ、青木頑張れ』って言いながらプレーしていた。体技心が充実してたんだろう。俺がシビれるときは、彼もシビれてるじゃないかって思うくらいにね」
10番。青木がグリーンの外からチップインバーディを決めた後、バーディパットに臨んだニクラスが「3回仕切り直ししてた」(青木)というほどの緊迫感が漂う。「オレもゴルファー。ジャックもゴルファー。相手が1回でも失敗したら、追いつけるかもしれないと思ってやってた。自分の失敗は考えることがないくらい充実してた」と、11番以降はスコアカード通りのプレーを揃って続けていく。
クライマックスの17番、18番が続けてパー5なのがバルタスロール。17番は青木、ニクラスともにバーディで、2打差のまま最終ホールを迎える。最後まで優勝するつもりでプレーしていた青木は、ここでもバーディ奪取。ニクラスもバーディで、2打差のまま勝負がついた。
メジャー16勝目を飾ったニクラスが、ウイニングボールをそっとポケットに忍ばせたのとは対照的に、青木は、まるで優勝したかのようにカップから拾い上げたボールを大歓声に沸くギャラリーのなかに放り込んだ。
「負けても勝った雰囲気になったのはあの試合だけ。勝ったみたいにボール投げてたもんなぁ。優勝する、じゃなくて勝つチャンスは自分で作る、と思ってやっていた。どの試合も勝つつもりで。世界一俺が上手いと思ってやってるんだよ。そうじゃなきゃ海外になんか行かない」
翌日の新聞には、ニクラス優勝のニュースとともに“オリエンタルマジック”の見出しが躍る。死闘には敗れたものの、独特のパッティングスタイルから繰り出される青木のミラクルパットが、この言葉と共に人々の記憶に強く刻み込まれた。
「後でニクラスが俺のことを聞かれて“パッティングの教科書”(自分の技術論)を変えなきゃいけない、みたいなこと言ったと聞いたけど、『大きなお世話だ』と思ったね。これが俺なんだ。シンプル。オリエンタルマジックだろうが何だろうが、俺のスタイルだからね」。この自負が、1983年のハワイアンオープン優勝につながる。その話はまた後日。(文・小川淳子)