国内男子ツアーが来週の「東建ホームメイトカップ」からいよいよ開幕する。そこで、ツアーを彩る選手たちのデータを様々な観点からチェック。今回は石川遼が挙げた優勝を振り返る。【7勝目~12勝目】
2010年 中日クラウンズ
名古屋ゴルフ倶楽部和合コースで伝説が生まれた。6打差18位タイから最終日をスタートさせた石川遼が、歴史的な大逆転優勝を飾った。赤いパンツスタイルの勝負服に身を包んで登場した石川は1番、2番と連続バーディを奪うと、4番でもバーディを奪う最高のスタート。5番でもバーディを奪って迎えた6番では、セカンドでグリーンを外すもアプローチを直接放り込みチップインバーディを奪った。「あのチップインで何かが変わりました」。ここから”石川劇場”が始まる。
中盤の8番から11番まで立て続けにバーディを奪うと、難関の14番ではグリーン外から約10メートルをパターで放り込み、2つ目のチップインバーディ。15、16番でも伸ばすと、最終18番のバーディチャンスは逃したが、たった1日で圧巻の12バーディを奪取した。驚異の“58”を叩きだし、2位に5ストロークの大差をつけて優勝をもぎ取った。
米ツアーではデビッド・デュバル(米国)、日本ツアーでは倉本昌弘が“59”ストロークを記録していたが、これを18歳7カ月の若さで更新。この大会は未だに語り草で、石川が和合に戻ってくるたびに話題となる。そのとき小学生だった金谷拓実や蝉川泰果も「石川遼さんの58が印象的です」と話すほど、ゴルフ界に衝撃が走った出来事であった。
2010年 フジサンケイクラシック
最終日に杉並学院高の先輩・後輩による死闘が繰り広げられた。2位に3打差をつけてスタートした石川は、出だしでつまずくとあっという間に先輩・薗田峻輔にとらえられた。後半は10番、11番と連続バーディを奪い波に乗ったかに見えたが、直後の12番でボギー。スコアを伸ばせずにホールを消化していくにつれ、「置いていかれるという不安があって。それがパッティングの狂いがでた一つの要因になっていたかもしれません」。そして、首位の薗田と2打差で迎えた17番でバーディを逃した所で、さすがの石川も「あきらめかけました」。
しかし、17番を終えた時点でリーダーボードを確認すると、薗田が最終ホールボギーでトータル9アンダーになっていることがわかった。最終ホールでバーディならプレーオフ。「一度消えかかった闘志が燃えはじめた」。最終18番、左のバンカーから放たれたセカンドショットは奇麗な放物線を描き、ピン手前1メートルに。割れるような歓声と拍手を、両手を広げて受け止めた石川はここでバーディを奪い、先輩・薗田の背中を土壇場でとらえた。
迎えた薗田とのプレーオフ。1ホールごとに交互にチャンスにつけ、見ている観衆は2人の世界に引き込まれていった。3ホール目では先に打った石川のバーディパットがカップに蹴られ、残すは薗田の1.5メートルのバーディパット。「先輩が打った瞬間、コロがりを見て正直入ったと思いました。決まったと思った」。しかし、このパットもカップに蹴られた。ここでも決着はつかず、迎えた4ホール目。移り気な富士桜の神は、石川にほほえんだ。
「(プレーオフ4ホール目)先輩がパーパットを外す予感はありませんでしたし、次のホールにいける心の準備は出来ていました。それだけに衝撃は大きかったです」と最後は薗田が1メートルのパーパットを外した。突然の終戦に優勝の実感が湧くまで時間がかかった石川だが、先輩との死闘を「夢のような時間」と表現した。
2010年 三井住友VISA太平洋マスターズ
最終日を首位タイからスタートした石川遼が7バーディ・2ボギーの「67」をマークし、トータル14アンダーで勝利を手にした。スタートホールの1番をボギー発進とするも、その後は2度の3連続バーディを決めるなど後続を寄せ付けないゴルフで、2位に2打差をつけて危なげなく逃げ切った。2007年には同大会でベストアマを獲得。およそ3年でプロとして栄冠に輝いた。