記憶に残るマスターズ。タイガー・ウッズ(米国)の16番でのチップインバーディ。ミケルソン(米国)が優勝を決めて両手を上げて飛び上がって喜んだシーン。プレーオフでバッバ・ワトソン(米国)が右の林から直角に曲がるフックをかけて勝負を決めた日。そして、私も現地で取材したタイガー復活の日となった19年の海外メジャー15勝目。今世紀の名場面がよみがえるが、『思い出のマスターズ』と聞いて、真っ先に思い浮かぶのは95年の優勝シーンだ。
当時大学生だった私は、テレビの前にかぶりつきで見ていた。タイガーのデビュー前、ツアーはパワー全盛の始まりを見せていた。圧倒的飛距離のジョン・デーリー(米国)。そして、この年の大会で2位に入ったデービス・ラブIII(米国)。この年にマスターズデビューを果たしローアマに輝いたウッズ。そんなパワーヒッターたちを見事に撃破したのが、当時43歳のベン・クレンショー(米国)だった。
米ツアー通算19勝、現在69歳のクレンショー。84年大会でもマスターズを制している実力者。ところが40歳を過ぎてからのクレンショーは勝利が激減していた。そんな状況で、ジャック・ニクラス(米国)が86年に打ち立てた46歳での優勝に次ぐ年長優勝を果たした。この記録は同じ43歳で19年大会を制したウッズに抜かれてしまったが、当時の私からすれば、見た目普通のおじさんがマスターズに勝ったのだ。
最終日、18番グリーンで最後のパットを沈めたクレンショーは、体を大きく前方に曲げて、帽子を落とし、顔を覆って号泣。かまわず涙を流し続けた。今にも崩れ落ちそうなほどでキャディがそっと支えにいった。11年ぶり2度目のマスターズ制覇という喜びからくる涙もあっただろう。ただそれは、その1週間前に起きた出来事を思い返しての涙が大半だった。
テキサス出身のクレンショーは、ゴルフコーチの草分け的存在だったハービー・ペニックを師と仰いでいた。ゴルファーとして、人間としてのあるべき姿を教えてくれた恩師。その恩師が、大会直前に帰らぬ人となった。打ちひしがれたクレンショーは初日を前にした水曜日、テキサスに飛び葬儀に参列。そしてその夜オーガスタに戻り、失意の中で大会をスタートした。
初日を2アンダーと上々の位置で滑り出したクレンショーにスポットライトが差し始めたのは2日目からだった。首位と2打差に浮上。そのとき、テレビでこの話しが紹介されていた。もともと感動秘話などにはめっぽう弱いため、クレンショーを応援していたのだと思う。
当時大学生だった私は、テレビの前にかぶりつきで見ていた。タイガーのデビュー前、ツアーはパワー全盛の始まりを見せていた。圧倒的飛距離のジョン・デーリー(米国)。そして、この年の大会で2位に入ったデービス・ラブIII(米国)。この年にマスターズデビューを果たしローアマに輝いたウッズ。そんなパワーヒッターたちを見事に撃破したのが、当時43歳のベン・クレンショー(米国)だった。
米ツアー通算19勝、現在69歳のクレンショー。84年大会でもマスターズを制している実力者。ところが40歳を過ぎてからのクレンショーは勝利が激減していた。そんな状況で、ジャック・ニクラス(米国)が86年に打ち立てた46歳での優勝に次ぐ年長優勝を果たした。この記録は同じ43歳で19年大会を制したウッズに抜かれてしまったが、当時の私からすれば、見た目普通のおじさんがマスターズに勝ったのだ。
最終日、18番グリーンで最後のパットを沈めたクレンショーは、体を大きく前方に曲げて、帽子を落とし、顔を覆って号泣。かまわず涙を流し続けた。今にも崩れ落ちそうなほどでキャディがそっと支えにいった。11年ぶり2度目のマスターズ制覇という喜びからくる涙もあっただろう。ただそれは、その1週間前に起きた出来事を思い返しての涙が大半だった。
テキサス出身のクレンショーは、ゴルフコーチの草分け的存在だったハービー・ペニックを師と仰いでいた。ゴルファーとして、人間としてのあるべき姿を教えてくれた恩師。その恩師が、大会直前に帰らぬ人となった。打ちひしがれたクレンショーは初日を前にした水曜日、テキサスに飛び葬儀に参列。そしてその夜オーガスタに戻り、失意の中で大会をスタートした。
初日を2アンダーと上々の位置で滑り出したクレンショーにスポットライトが差し始めたのは2日目からだった。首位と2打差に浮上。そのとき、テレビでこの話しが紹介されていた。もともと感動秘話などにはめっぽう弱いため、クレンショーを応援していたのだと思う。